公社設立30周年記念特集

 「30年」をキーワードに県内の企業に聞く 

 
 
ありがとう30年 よろしく21世紀

昭和42年7月、財団法人岩手県中小企業設備貸与公社として設立された当公社は、この7月をもって30周年を迎えました。この間、昭和47年に下請振興事業を開始し名称も現在のものに改めました。その後、昭和48年に商工研修、昭和49年に情報推進の各事業を開始し、現在に至っております。この30年間における我が国経済の変化も一様ではなく、これに連動した本県の経済動向にあって、当公社は県内中小企業の皆様はもとより国及び県並びに商工指導団体等関係各位のご支援とご指導のもと、各事業の適切な運営に努めてまいりました。皆様には今後ともよろしくお願い申しあげます。
 本号では、ご支援をたまわりました皆様にささやかな謝意を表するため「30年」をキーワードにお世話になった県内企業の方々からその企業の変遷や将来展望などをうかがい掲載しました。皆様の経営にいささかなりとも参考になれば幸いです。


 

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磐石な営業基盤を柱に
  大型店との共存共栄をはかる
(株)昆松
代表取締役社長  昆 梅蔵 氏 (会社設立30周年)

 

30年前との対比
年 度 昭和42年 平成9年
売上高 4億円 16億円
資本金 200万円 4,000万円
従業員 10名 70名
業 種 果実卸売、食料品小売業
住 所 紫波郡矢巾町高田11地割35-4
TEL 019(697)2411
FAX 019(697)2414


 
 当社は、昭和42年に法人化いたしました。当時、仕事の内容もバナナ等輸入果物の卸と食料品、雑貨等の小売、それにガソリンスタンドと多岐にわたっていました。業容も拡大し、従業員も増えていましたので、創業者である父が亡くなったのを機に、仕事をする体制などををすっきりさせようということで株式会社にしました。

 当時は、今のように車社会が本格的でなく、大型店といわれるものもなくまだ卸売業の存在価値がはっきりしていて、せいぜい「スーパー」が出始め数年たっただけの頃でしたので、儲かったいい時代でした。もっともあの頃は、家族が全員で、昼も夜もなく、休日もとらず働いていましたから。
 昭和30年代後半から自家製の設備で輸入バナナを熟成し、卸売をしていましたが、昭和50年に設備貸与を利用し「バナナ熟成装置」を導入したのが公社とのお付き合いの最初でした。その後、小売商業支援センターが開所後もまたお世話になっています。本店の店長をしている長男がたびたびお邪魔してビデオを借りていますが、こんな時代ですので、「小売店が生き残るための事例」のようなものが多いようです。それを、本店の次長をはじめスタッフとみて勉強しています。

 この地域は大型店がひしめいており、特に小売業が生き延び、発展するには厳しいところです。その中で、商いの原点に立ち戻り「地場物の野菜や果物を、お客様が欲しいときに欲しいものを提供すること」を柱にこの商売を続けていこうと考えてます。そのためには、進出してきた大型店のいいところを吸収することも必要かと思います。幸い、長男が大学を卒業し、中央の流通業界で修行し戻ってきて、やる気でいますので・・・。長男は「かつて八百屋がスーパーになったが、これからはスーパーが八百屋になる時代だ。それが小売業の生き残る道だ。」と言っています。もっとも八百屋といっても現在あるようなものではなく、もっと大型化し専門化した形での八百屋をイメージしているようです。それと、私は以前全日食チェーンの理事長をしておりましたが、その時「お客様は商品を価格だけで判断し購入するものではない」ことを痛感しました。長男と私の考え方を推し進めた結果が、当社の会長が理事長をしているアルコの設立とそれへの出店です。

 公社さんには、これからもお世話になると思いますが、小売業者の方々が気軽に利用できるよう小売商業支援センターの拠点を全県に置いていただければと思います。それと、アルコを設立するときに感じたのですが、国なり県の制度融資について最新の金利など貸付条件を常時提供していただければ有り難いですね。案外、すぐわかるようでわからないのが現状ですから。


 


新しい世紀に向け
  「提案型企業」を目指す
谷村電気精機(株)
代表取締役社長  谷村 久興 氏(会社設立30周年)

 

30年前との対比
年 度 昭和43年 平成8年
売上高 8,700万円 50億1、900万円
資本金 2,450万円 9,450万円
従業員 102名 294名
業 種 OA関連機器製造業
住 所 北上市村崎野21-26-18
TEL 0197(68)2311
FAX 0197(68)2310

 

 私どもの会社は昭和42年4月に谷村新興製作所(現在の新興製作所)からの仕事を受けるための会社として設立されました。その頃は郵政省に納入していた会計機を量産していました。10年余り谷村新興だけの仕事ををしていましたが、昭和53年に谷村新興が経営的に厳しい状態になり、全く受注がなくなりました。この時、公社さんには本当に親身になり新しい仕事の斡旋をしていただきました。この時のことを考えれば、公社には足を向けて寝れません。この時には、東芝精機さん、東京自動機さん、アルプス電気さんを紹介いただきました。特にアルプス電気さんは今でも当社の主要な受注先になっています。東芝精機さんの仕事を通しメカトロ技術を、アルプス電気さんの仕事を通し量産技術を勉強させていただきましたが、この技術は今でも当社の大事な財産です。また、新しい受注に対応するなどのため高額な機械を導入する際には何度も機械類貸与を利用させていただきました。  

 そのほかにも昭和55年から計画的に商工研修センターの工業経営者大学を受講させています。今までに22人受講させ、現在はその者が幹部、中堅社員に育っています。経営者大学を受講させたのが縁でMELの石黒先生などから直接指導を受けることができました。
 情報センターの事業では、ほとんど毎年度情報化プラザの会員になっています。また、3年ほど前、まだインターネットが本格化する前ですが、ソフトウェアアドバイザーの指導を受けました。個人のレベルアップは勿論、当社のコンピュータ化にも役立てています。そんな情報センターとの繋がりから、平成7年に松江市で開かれた全国中小企業情報化フォーラムでは当社のシステムを事例として発表する機会を与えていただきました。

 情報センターの事業では、ほとんど毎年度情報化プラザの会員になっています。また、3年ほど前、まだインターネットが本格化する前ですが、ソフトウェアアドバイザーの指導を受けました。個人のレベルアップは勿論、当社のコンピュータ化にも役立てています。そんな情報センターとの繋がりから、平成7年に松江市で開かれた全国中小企業情報化フォーラムでは当社のシステムを事例として発表する機会を与えていただきました。

 この仕事をしていて一番嬉しいことは「ものを作る喜び」があることです。また、平成5年4月には、東北の地場企業としては初めてISO9002の認証を取得しました。そういう中にあって、いわゆるバブルの崩壊を機に、アルプス電気さんからの仕事を主体にしながらも、さらに「ものを作る喜び」を高め、主体性をもった経営ができるよう、「開発型企業」を目指しています。そして新しい世紀に向けては、小回りがきく中小企業だからこそ可能な「提案型企業」を目指したいと考えています。

 公社へのお願いですが、実際にはそうではないのもかかわらず、一般的に企業の方々は「公社は敷居が高い」という印象を持っていますので、それを払拭するよう努めてほしいです。また、企業の方々に有利な事業をしているわけですから、もっと積極的にPRをしてはどうでしょうか。例えば、インターネットを利用しての発注情報の迅速な提供や、何時の時代にあっても「企業は人なり」ですので、研修センターが実施する研修を、時宜を得た、質的にも高いものにしていただきたいです。


 


生産能力拡大による安定供給と
      営業力で市場確保
(株)ニイヌマ
代表取締役社長  新沼 清利 氏 (会社設立30周年)

 

30年前との対比
年 度 昭和42年 平成9年
売上高 3、000万円 6億3千万円
資本金 200万円 4,850万円万円
従業員 11名 28名
業 種 製材業
住 所 気仙郡住田町世田米字城内85-23
TEL 0192(46)3077
FAX 0192(46)2117


 
 有限会社になった30年前といえば、私がまだ30才の時でした。父は当時、商工会の会長や町議会議員をしており、その父が病気で倒れ、復帰していた頃です。父が倒れたとき、工場の方は何とかわかりましたが、原木の仕入とその決済などの管理的な仕事は父がしていましたので、全体としてはまだよくわからない状態でした。このままでは新沼製材所がなくなってしまうと思い、必死の思い出で働き、勉強もしました。結局父は昭和49年の6月に亡くなりました。

 会社になって間もない頃、大船渡の木工団地に入居する、しないで悩んだこともありました。その後、3年余り考えた末、53年11月に、父が購入していた川向へ工場を新築移転しました。この時も公社さんの設備貸与を利用させてもらいました。この移転をみて、町内や同業者の間では「新沼製材所はつぶれる」との風聞が流れたようですが、私はこれに奮起してそれこそ寝る間も惜しんで働きました。たまたま、景気の拡大基調という追い風が吹いていましたので、大変な時期を乗り越えられました。
 前回もそうでしたが、手狭になったため、平成4年6月にも工場を移転しました。これが現在の工場で、敷地は川向の2倍ほどあります。手狭になった理由ですが、需給のバランスが不安定で、収益性も低いこの業界ではどうしても規模の利益を追求するしかない、そのためには樹種を絞り込み安定供給が可能な市場出荷しかないと考えたためです。今でもこの考えは間違っていないと思います。

 この考えを押し通すには中央の市場と繋がりを持たなければなりませんが、新規のお客様との取り引きには苦労しました。お客様の印象に残っていただくため、赤いネクタイを締めて販路開拓に回ったことを思い出します。お陰様で、現在は中央の市場では住田町の「ニイヌマ」といえば大抵の方々には通じるようになりました。赤いネクタイを締めるのは妻の発案というか命令でした。面と向かっては言えませんが、会社がここまでなれたのは、妻に負うところが大きいです。残っているのは、後継者問題です。幸い長男が戻って一緒に働いていますが、私が若かった頃と同じですので、これから鍛えようと思っています。

 今年は創業50年、会社が設立されて30年、さらには第二工場が完成しましたし、それと私の還暦が重なりますので、関係者の方々に感謝するため、心ばかりの記念の行事を催したいと計画しています。

 公社へ期待することですが、私どものような下請性が薄い業種であっても、例えば「こういうところで、こういう材木を欲しがっている」というような情報を流してもらえれば有り難いですね。それと、具体的な業界情報や取引先への与信を判断するための情報提供してもらえればいいですね。


 

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積極的投資で業容拡大
   人材育成にも注力
(株)協和製作所
取締役会長  古川 文悦 氏(設備貸与利用30年)

 

30年前との対比
年 度 昭和42年 平成9年
売上高 770万円 5億4,300万円
資本金 50万円 3,100万円
従業員 11名 35名
業 種 金属加工・金属製品製造業
住 所 花巻市東十二丁目第19地割10-51
TEL 0198(22)3145
FAX 0198(23)3899

 
 私どもの会社は公社が設立された時から現在までずっとお世話になっています。最初は、公社ができて設備貸与を始めた昭和42年に68万円のプレス機の貸与を受けました。

 当社は創業以来5億円以上の機械や装置を導入していますが、そのうち約1億5千万円は貸与制度を利用しており、延べにすれば二十数回です。私どものような業種は、発注企業が提示する単価に合わせて仕事をしなければならないことが多いので、どうしても最新の機械を入れなければ採算がとれない場合がよくあります。そんな時、真っ先に貸与制度を思い出し、利用したものです。
 貸与の関係だけではなく、下請振興課にも大変お世話になっています。美和ロックさんが玉山村の団地で操業を開始と同時に斡旋していただいた部品の仕事は現在でも続いています。公社さんと付き合っていれば、単に仕事の斡旋、機械の貸与だけではなく、業界の情報を入手できることも、大きな効果としてあります。  

 この30年の間には様々なことがありました。最も印象的なことは、現在当社が入居しているこの花巻機械金属工業団地協同組合を作るときのことです。当時、山の間に挟まれ沢が流れている土地を眺めながら本当にここにできるのだろうかという思いにかられました。それと、何と言っても莫大な資金を要することでしたので・・・。この時には県はじめ中小企業団体中央会の方々に色々と教えてもらいながら書類づくりをしたことを思い出します。また、団地組合ができた頃は当社の転換期でもありました。それまでのプレス加工だけではなく、金型や治工具の生産を始め、現在の基礎を築いた時代でした。

 団地組合が設立されて以来、理事長を仰せつかっていましたが、最近身を引きました。身を引くといえば、会社の方は10年以上前に現社長にバトンタッチしました。身内の者を良く言うのは品がないですが、本当に良くできた社長で、お陰で私もこうしていまだに会長を務めさせてもらってます。

 皆さんに「若い」と言われますが、私の生活信条である「煩わしさを明日に持ち越さない」を実践していること、物事をあんまり難しく考えないからそう見えるのでしょうか。思えば、これまでいい人達に恵まれ、お世話をいただき、会社も私もここまでこれました。 4か月ほど前にこの団地の中で移転したばかりですが、敷地、工場とも2倍近くになりました。ゆくゆくは別になっているプレス工場を合併できればと考えていますが、最後の踏ん切りがつかないでいます。

 一般的に中小企業は最初から優秀な人材を求めることが難しいので、採用した人材をどう育てていくかが重要になります。こんな時に、公社はじめ県や関係の機関で横の連絡をとって効率的な方法で勉強の場を提供できるようにしていただければと思います。


 


「高級品志向」、「別寸対応」
        で競争力強化
東北縫製(株)
常務取締役 熊谷 榮行 氏(創業30周年)

 

30年前との対比
年 度 昭和42年 平成9年
売上高 1億5千万円 5億円
資本金 1、000万円 2,000万円
従業員 100名 120名
業 種 縫製加工業
住 所 陸前高田市竹駒町細根27-1
TEL 0192(54)411
FAX 0192(55)5173

 
 当社は、昭和42年に原反や事務用ユニフォームの卸売をしている株式会社ボンマックスの生産工場として創業しました。当時ボンマックスは卸売が専門でしたが、お客様の要望に直接お応えするためと、利益率が高い商売をしたいということから、親会社の社長が生産工場をつくる必要性を感じ、計画したものです。立地場所は東北地方のどこかと考えたようですが、岩手県の方が熱心で、久慈、宮古、そしてここを候補地に絞り込みました。当時の熊谷陸前高田市長が直接社長に要請をし、ここに決定したようです。旧竹駒中学校の跡地を利用し、創業時から20年余り廃校になった校舎を工場として操業していました。

 時代の流れにもまれ、この30年間には当社もいろんな紆余曲折がありました。昭和45年から47年には広田工場も操業し、従業員数は一時は200人ほどになりましたが、この業界も40年代の後半から景気が悪くなり、従業員数も約60人にまで減少し、52年にはいったん工場閉鎖を決定しました。しかし、当時親会社の経理部長であった桜田現社長が反対して、工場閉鎖は免れました。この時桜田社長が反対していなければこの会社はなくなっており、市としても100人規模の雇用機会を失っていたわけです。

 昭和63年11月には工場社屋を竣工し、平成2年9月には業容が拡大した親会社が東京の配送センターが狭隘になったため、ボンマックスの物流の拠点を全面的にここに移しました。現在、全国の約20ある協力工場から製品がここに納められており、この管理も当社で任されるようになりました。  

 この地域でも最近は、従業員の確保が難しくなってきていますので、2年前、沢内村に従業員数が15人程度の子会社を作り「スカート製造ライン」を任せています。管理の点から、今期中に沢内工場という形で吸収合併を計画しています。

 今年の2月末から2か月間ほどベトナムから男4人、女5人の技術研修生を受け入れました。これは、より安定して製品調達を図るため親会社のボンマックスが商社の伊藤忠などと共同で、「ユニマックス・サイゴン」という現地法人をつくり操業しており、これに協力して行ったものです。この研修生受け入れで、知らず知らず私どもも国際化の流れに巻き込まれているのを感じるとともに、今後当社は「一層の高級品志向」「別寸対応(着用する人の体型が規格外の場合、これに合わせ調整する工程)」などで海外同業者との競争に打ち勝っていくことの必要性を実感しました。これまで公社とは下請振興事業で関わりがあります。今後は、当社がボンマックスとの間をとりもつ形で県内企業への発注が増えることのお手伝いができればと考えています。

 

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